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甘党の素通りできぬ石山寺[和菓子と甘味処] 茶丈藤村 sajo-towson
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石山寺と島崎藤村 そして 茶丈藤村のこと

[ TOPICS ]朝日新聞(滋賀)購読者向け冊子の 「あいあいAI滋賀」11月の一週目号に
「島崎藤村と石山寺について」が特集記事になりました。よろしくご覧ください。

                                 ↑ここをクリックすると見られます


明治26年二月 東京で女学校の先生をしていた20才の島崎藤村は、教え子との恋愛に悩み、関西漂泊の旅に出ました。その折、石山寺に立ち寄り自分の愛読する「ハムレット」を寺に奉納しました。

『石山寺へハムレットを納むるの辞』

名にしをふ瀬多の唐橋に立て湖上はるかに浮ぶ詩神を拝み、むかし紫式部が源氏の風情をうつせし石山寺に詣づ。予や旅に寝て風雅に狂する身のここに一の至友あり、今この友を笈中より取出し「ハムレット」一冊と記して個の此寺に納む、紫女が霊のとどまりたらんと覚ゆるかなたを見やりて、ひたすら今日の風雅を祈るに、雪風飄々孤身をうづめて寒山の一鴉この狂客のはらわたを断つ。

湖にうかぶ詩神よ、心あらば落ち行く鐘のこなたに聴けや、千年の冬の夜毎に、石山の寺よりひびく読経の声。
      島崎藤村『文学界』第二号



さらに京都、神戸、高知へと旅を続けた藤村は、五月に石山へ再びやってきて、今度は石山寺の元茶所であった密蔵院の一間を借りて自炊生活を始めました。

島崎藤村『文学界』第七号「茶丈記」より

そもそも石山寺といふは名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を閉して今はその名のみをとどめたる国分山を
うしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名月に浮べたる源氏の間には僅にそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたたき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。
 

         

ここに出てくる藤の藤棚は今も石山寺表境内にあり、二カ月にわたる自炊生活をした密蔵院は寺内に移築されています。また、その二カ月の間に知り合った石山の人たちとの交流は「眼鏡」や「力餅」などの物語にも描かれています。


このように石山での生活がその後の偉大な作家、島崎藤村の執筆活動に与えた影響は少なくはありませんでした。
茶丈藤村は彼が逗留し「茶丈(さじょう)」と呼んだ坊(密蔵院)の面影を抱いて、煙出(けむだし)や三和土(たたき)南蛮漆喰の壁など物語風に設えました。



以下 あいあい滋賀より抜粋引用

漂泊で作家への道決意

 島崎藤村(1872?1943)が関西を放浪したのは1893年、数え22歳の時だった。当時を描いた「春」は1908年、「東京朝日新聞」に連載された。主人公は「岸本捨吉」。教職の身で婚約者のいる女学生に恋をして破れ、間もなく辞職し、旅に出る。藤村が自ら私小説だと言う「春」は、滋賀に何を残しているのだろう。藤村の跡を探した。 「琵琶湖に近い茶丈(ちゃじょう)の生活はまだ岸本の眼にあった。(略)二月半ばかりの間は茶丈を一間借りていた。その頃は自炊だ」 この茶丈は、藤村が放浪中に寄稿していた雑誌「文学界」から、大津市の石山寺東大門前の「密蔵院」だと言われている。石山寺の参道を進むと、生い茂る木々に囲まれた木戸がひっそりと構えていた=写真?。そこが「密蔵院」の入り口だ。脇には「島崎藤村ゆかりの地」と書かれた看板が立っている。同寺の顧問、目片善次さんは「藤村がいた当時、参拝客に茶を出していた茶丈・密蔵院は境内に移築して修行僧が鍛錬に励む場になり、残念ながら非公開です」と言う。  

 藤村の詩碑があると聞き、山門前に戻ると、小公園の中ほどに詩碑があった。 島崎藤村「石山寺にハムレットを納むるの辞」より 「湖にうかぶ詩神よ 心あらば/落ちゆく鐘のこなたに 聴けや/千年の冬の夜ごとに 石山の/寺よりひびく読経の こえ」 藤村が放浪に出た翌月の「文学界」に掲載された詩だ。道ならぬ恋をした自分を悲劇の王子と重ね合わせていたのだろうか。この碑は1972年に鷲尾隆輝・石山寺座主が建立したものだが、同座主は今年10月中旬に亡くなり、詩碑に込められた思いを聞くことは出来なかった。 藤村の石山での生活において欠かせない人物がいる。 「亭主というは大工が本職で、傍寺へ納める花を作ったし、内儀は内職に蛍の籠(かご)を張る、子息は大津の下駄(げた)屋へ奉公している、こんな人達と岸本はしばらく同じ屋根の下に暮した」 その息子の紹介で堀井來助という60歳を超えた刀鍛冶に出会う。茶丈に招いてコイ料理を自らふるまうほど親しくつきあった來助は、藤村の長編童話「眼鏡」や童話集「力餅」などにも登場する。「膳所藩のお抱へになったほどの腕利き」(眼鏡)という來助を知ろうと、膳所藩資料館の戸田耕吉さん(80)を訪ねた。來助の子孫もまた刀鍛冶を続け、ひ孫の胤次(たねつぐ)さんは刀匠として北海道室蘭市初の無形文化財に指定されていることが分かった。  

 石山寺の山門に向かって右手に、喫茶店「茶丈 藤村」があった。「春」にちなんだ店名だが、店長の徳永まりあさん(34)は、開店した翌年の 1996年、胤次さんの訪問を受けたと言う。徳永さんに案内され急な坂を上がった墓地で、來助の墓に出合った。生涯を鍛冶に打ち込んだ職人らしい、剣の形をした堂々たる墓碑だった 「春」は、葛藤(かっとう)の末に「これから筆の方で稼ぎます」と、作家として生きることを決意した岸本が、東北に旅立つ場面で終わる。藤村は関西漂泊後、東北で教師として過ごし、やがて不朽の名作「破戒」を自費出版する。確かに石山での藤村は「一書生」だったが、茶丈での自炊生活や來助との出会いは「破戒」にたどり着くまでの必要な時間だったに違いない。 藤村が出合ったものは、形を変え、淡い墨絵のような軌跡を残していた。時とともに人や建物は変わっても、川の流れは変わらない。瀬田川の川面に映る陽光を背に、石山を後にした。

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