豆知識

みなさんは滋賀県大津市について、どんなことを知っていますか? 残念ながら、
全国的には場所すらよく分からないという方が多いのではないでしょう か?
大津市は日本一の琵琶湖の南に位置し京都・奈良・鎌倉などとならんで古都指定 を受けた街で、かつては都が置かれ、源氏物語を生み、東海道最大の宿場町でした。
一見地味でも、実は自然と歴史と文化とまちが交じり合った奥行きのある”大津市”。まだまだ知られていないその魅力を、スタッフが発掘してご紹介していきま す。
(メルマガ”e湖都通信”に連載中の”大津豆知識”を再編集し掲載しています。)
大津豆知識、目次へ >>

大津市

『 瀬田城主、山岡景隆と織田信長 』

『唐橋を制する者は天下を制す』。戦国時代、びわ湖から流れ出る唯一の川、瀬田川に架かる橋は、日本三大名橋でもある“瀬田唐橋” のみでした。東から京都を目指す軍やそれを阻止する者にとっての戦略拠点で、まさに軍事の主要路となりました。

その橋のたもとに築かれたのが「瀬田城」。
代々、城主を務めたのは山岡氏で、中でも有名なのが織田信長からの信頼が厚かったと言われる山岡景隆(かげたか)です。

景隆は、室町幕府の将軍足利氏に仕えており、六角氏(鎌倉時代から 戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家)の有力家臣で 1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛を開始した際、南近江の旗頭として抵抗していましたが、六角氏が安土の観音寺城で落城した際に、織田信長の家臣となります。

景隆が世に名を知らしめたのは、1582年。
京都の本能寺で信長を討った明智光秀が、安土城を占拠しようと近江 に入り、瀬田橋に軍を進めます。この時、架橋を任されていた景隆が瀬田唐橋を焼き落としたため、光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、行く手を阻んだと言われています。

この際、光秀は自軍への勧誘をはかったそうですが、景隆は追い返し たというエピソードも残されており、信長への忠誠心が伺えます。

その後は、信長の次男である信雄(のぶかつ)・秀吉と共に、北伊勢攻めに参陣しましたが“賤ヶ岳の合戦”の際、敵方の柴田勝家に内通していたことを理由に、瀬田城を追われることとなったそうです。

現在は瀬田唐橋の東側高層マンションの下、県道の前に、ひっそりと 「瀬田城跡」が立っているのみですが、近江八景の一つ、瀬田唐橋のたもとに建てられた瀬田城もまた、戦国史上の大事件に関わり、人々に鮮烈な記憶を残した歴史舞台です。

 ■滋賀県観光情報「瀬田城跡」

大津豆知識、目次へ >>

瀬田城主、山岡景隆と織田信長

ヘッドイメージ大津豆知識