豆知識

みなさんは滋賀県大津市について、どんなことを知っていますか? 残念ながら、
全国的には場所すらよく分からないという方が多いのではないでしょう か?
大津市は日本一の琵琶湖の南に位置し京都・奈良・鎌倉などとならんで古都指定 を受けた街で、かつては都が置かれ、源氏物語を生み、東海道最大の宿場町でした。
一見地味でも、実は自然と歴史と文化とまちが交じり合った奥行きのある”大津市”。まだまだ知られていないその魅力を、スタッフが発掘してご紹介していきま す。
(メルマガ”e湖都通信”に連載中の”大津豆知識”を再編集し掲載しています。)
大津豆知識、目次へ >>

大津市

『その数約100!大津に或った城 』

滋賀県には約1300ヶ所もの城跡があるのをご存じでしょうか。

城というと巨大な天守や高い石垣を思い浮かべますが、現在の城のイメージの中心となる石垣、天守などの形式は室町末期以降、特に織田信長が安土城を築城した前後の時代に発生したと考えられているそうです。それ以前の城は土を土台として、小屋のような建物が建つ、とても簡単なものだったようです。

県内約1300ヶ所の城跡のうち、大津市内には約100ヶ所存在しているそうです。

今回は、約100ヶ所の城跡の中から、北から南へ、いくつかご紹介させていただきます。

---------------------------------------------
「北比良城」(きたひらじょう)
現在の大津市北比良。
北比良城は、現在の福田寺の境内一帯とされ、福田寺の境内には北比良城の石碑が建てられていますが、歴史的な詳細は不明と言われています。

「細川城」(ほそかわじょう)
現在の大津市葛川細川町。
京と小浜を最短で結ぶ朽木街道(鯖街道、現国道367号線)を見下ろす丘陵地に築城されていました。現在では細川城のあった丘陵地一帯は“城之岡” とよばれているそうで、葛川谷の北の守り城であったと考えられているそうですが詳細は不明だそうです。

「生津城」(なまづじょう)
現在の大津市立伊香立小学校の西に伊屋ヶ谷の字があり、 そこに城山と呼ばれる小丘(伊香立上在地町)があります。ここに林宗林坊の居城跡があったと言われています。 伊香立越の道、近江・山城の両国の守り城ではないかと考えられているそうです。

「堅田陣屋」(かただじんや)
現在の本堅田1丁目あたり、浮世堂一帯にあったとされています。天領であった堅田に、大老・堀田正俊の三男、堀田正高が1698年(元録11年)に入封し、堅田藩が成立、陣屋を築きました。六代藩主堀田正敦の時、1826年(文政9年)に転封となり、堅田は再び天領となりました。

「今堅田城」(いまかたたじょう)
大津市今堅田町にあったとされる水城。
具体的な築城年は明らかではありませんが、1340年代といわれています。1573年(元亀4年)2月29日に明智光秀の湖上攻撃と丹羽長秀、蜂屋頼隆の地上攻撃が元で落城したそうです。

「衣川城」(きぬがわじょう)
現在の大津市堅田町衣川にあったとされる衣川城。
山内義重が1234年(文暦元年)正月、粟津の合戦に勲功を立て、衣川領を賜り、ここに城を築いたそうです。その後1526年(大永6年)衣川城は細川入道高国の奇襲にあい、落城しました。現在の衣川団地の中の一画、公園となっているところが衣川城だそうです。

「雄琴城」(おごとじょう)
和田源内左衛門秀純の居城とされている城で、雄琴の西方の丘の上(雄琴2丁目11番街区西側山手付近)にあったと言われているそうです。現在は城薮と呼ばれる竹薮があります。秀純は1566年(永禄9年)に六角義秀から滋賀郡を与えられ、雄琴城に入城したとされます。1582年(天正10年)に落城したようです。

大津の北部、今では住宅地としての発展が目覚ましい堅田は、古くより水運の拠点だったそうです。中世以後、堅田には「堅田衆」という自治が行われており、これらは「堅田湖族」とも呼ばれていたそうで、今でも堅田では「堅田湖族祭」というお祭りが行われています。何百年の時が経っても、文化が受けつがれているのかと思うと嬉しくなりますね。

---------------------------------------------
「山中城」(やまなかじょう)
山中越えを抑えた磯谷氏の城とされます。
1546年(天文15年)に山科言継が磯谷氏の居館に宿泊したという史料があるようです。

「壺笠山城」(つぼかさやまじょう)
現在の大津市坂本付近。
近江から京の一乗寺に通じる白鳥越の道を押える位置にある壷笠山山上に構えられたものであり、1570年(元亀元年)の姉川の戦い後も続く元亀争乱の中、浅井・朝倉軍が立て籠もった城とされています。朝倉・浅井連合軍が滅亡したのち、壺笠山城は明智光秀の支配するところとなり、 現在残る石垣は光秀によって修築されたものと伝えられているそうです。

「宇佐山城」(うさやまじょう)
1570年(元亀元年)4月、越前・朝倉攻めの際、浅井長政に背後を衝かれ、あわてて京都へ逃げ帰った織田信長が、 京都から岐阜城へ帰陣に先立ち築いた城が宇佐山城で、現在の大津市錦織町にあったとされます。当時は湖西周りで京都に向かうには避けては通れない位置でした。

宇佐山城は、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭です。石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城ではなく、恒久性を志向したものと考えられています。

1572年(元亀3年)に坂本城が築城されると、宇佐山城は廃城となりました。現在、城があったとされる山頂には放送局のアンテナが建っているそうです。

「松本城」(まつもとじょう)
現在の大津市本宮二丁目の浅井山(松本山)北方との言い伝えのお城です。松本民部少輔重範という武将の城(砦)と伝えられています。

「石山城」(いしやまじょう)
大津市石山寺1丁目にあったとされる石山城。
築城年代は不明ですが、山岡資広が創建されたとされている山城です。

近江神宮の裏山を登ったところ、宇佐山城があったとされる場所付近には、今も信長が築いた貴重な石垣が残っているそうです。400年以上経った今もそんな貴重なものが残っているなんて凄いですね。

---------------------------------------------
「田上城」(たなかみじょう)
田上城は甲賀郡の甲賀五十三家の一家である多羅尾氏がこの地に城を築いたもので、このあたりは近江国から伊勢・伊賀両国、および大和国に至る信楽街道の要所にあたるためとされています。現在の大津市立田上小学校の敷地一帯が田上城だと言われています。

「関津城」(せきのつじょう)
宇野源太郎守治が承久の乱の戦功により当城主となり、その後宇野氏は音地氏の旗頭として、草津・守山付近で勢力を伸ばしたそうです。現在の大津市田上関津町付近。

「大石東館」(おおいしひがしやかた)
大石氏の館跡。大石氏の先祖は藤原鎌足に発し、山城国田原郷と共に大石も領有していた藤原秀郷の流れをくむ豪族です。応仁の乱で一族すべて討死し断絶しましたが、遠縁の小山氏より小山久朝が大石家を再興、大石内蔵助の祖先となりました。

現在の大津市大石東にある浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると、大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っており、更に石段を登り切ると、大石家祖先の墓が4基並んでいます。

「妙見山城」(みょうけんやまじょう)
現在の大津市大石東町、浄土寺の背後の妙見山に築かれ、浄土寺の北東にある大石東館の詰めの城と云われているそうです。

  「大石城」(おおいしじょう)
大石東館の詰城とされている城。
現在の大津市大石中町、大石城は舌状尾根の中腹に築かれたといわれています。

---------------------------------------------
大津・志賀地方は、比叡山を越えると京であることから、 京へ通じる東海道・北国海道・今道越え(山中越え)、および途中越え等の街道を押さえるための城郭が多数築かれました。
また、街道以外にも、瀬田川を押さえるためや、湖上交通を監視するための城郭などもあり、城郭の担う役割が多様で、とても興味深い地域であることが伺えます。

ご紹介させて頂いた城跡は、大津にあった約100の城跡のうち、ほんの一部ですので、興味のある方は是非一度調べてみてくださいね。

 




大津豆知識、目次へ >>

『その数約100!大津に或った城』

ヘッドイメージ大津豆知識